昭和42年05月11日 朝の御理解
昨夜の月次祭でのお話の中に、私の糖尿病の事に付いてお話をさせて頂きました。糖が全然出なくなったと、神様の働きのあざやかな事、素晴らしい事、成程糖尿病と言うものはないのであって、実は、あるのは神様の御都合だけだと、例えば私のその事に付いての体験のお話の中ににも申しました。
ところが昨日、皆さん帰られて後にお茶を頂かせて貰ながら、七、八人残っておられた方が、先生もういっぺん検査をして下さいと、昨日、或る教会からお見えになっていたので、お茶を差し上げました。又昨夜もお茶の後にお茶菓子を、何時もの生菓子類、最中なんか甘い物を大分食べておった訳なんです。その後に一時間位しなければ検査が出来ません、一時間程経ちましてから。
十二時頃だったでしょう、先生もういっぺん検査して御覧なさいと、皆さんに手伝って貰って検査をしてみたんです、所が又、元の通り真っ青なものが出て来るんですね。二、三日は黄色、黄色は全く糖が出ていない事なのです、黄色が出て来るとばかり思うていた所が、思いに反して青いのが出た、ほうら先生ご覧なさい、ガブガブご飯をあがったり、甘い物を沢山食べられるから、こう言う事になったんだと。
私、ちょっと面目なかったんですね、今話したばっかりで御座います、こうやっておかげを受けたという、そのおかげがです、又、元の木阿弥になっているのですから、本当に面目ない、私の失敗の巻なんですよ、それから皆さん帰られましてから、最後の御祈念をさして頂くときに、あそこまで、おかげを被っておりましたのにどうして、こう言う様な事になるのだろうかと、お願いし、お伺いさして頂きましたらね、本当に神様の厳しさというか。容赦が無いというか。
それはいうならば信心も分からないというか、いうなら信心が子供であるという時なら、大目に見て下さる事もあろうけれども、言うなら私は、まあ、大人の様な事も自分で言うておるし、段々おかげを受けておるので御座いますから、大人に対しての厳しさというものを神様が見せて下さったと、言う事を解らして貰って、又一段とこの神様の有難さというか、間違いなさというものを解らせて頂いた訳で御座います。
と言うのは私が、その事をお願いし、又お伺いをさせて頂いておりましたら、心眼にですね、私が一握りの土を握ってるのです、そして、その土を握っている手を緩めましてね、サラサラと手の中に握っておる土を下にこぼしておる所を頂くんです。本当にそうだなあと思ったんです、私、全然糖が出ない時に、それこそびっくりし家内にこうだと、見てくれというて、家内にまで試験紙を見せましてから、一緒に喜びあった事をですね、時に私の心の中に是は感じたのです。
私はいやしん坊ですから、もうついつい食べてはいけない物まで平気で食べましたり、二杯と決めてあるご飯でも足りないと、もう半分と言った様な事を云うのですけれども、糖尿病になってから、こちらというものは、糖尿病には、こう言う物はいけないと制約された食べ物の中で、修業させて頂いておった、この修業だけは続けたい、この修業を続けるという事はですね。
私がいやしい事を思うたり、せんで済む事だから、こういう食生活の中に、その事自体を修業させて頂こうと思ったんです、所が前の日からお客さんで、今迄はお茶を人に出しましても、自分はお茶菓子を貰わなかったんですけども、昨日なんかも甘い甘い最中を幾つも食べました。そう言う事をすると、どんな人でも矢張り糖が出て来る筈なんです、所がその、自分はもう自身たっぷりですね。
いうならおかげ頂いたから、そんな事はないと言う風で、皆なに声かけて、ほうら見て下さいといいたいと思うた所が、あにはからんや、青いのが出て来ておると云う事。そこで昨夜神様に対する御祈念、そしてお伺いさせて頂いた時に、そう言う様なお知らせを頂き、手に握っている一握りの土を手を緩めて、さらさらとこぼしている所を頂いた、土というのは 土の様な信心を言われます。皆さん本当に土の様な信心をしなければならんと、私共、土の様な信心、いわゆる大地の様な信心。
いわゆる大地ぐらい辛抱強いものはないと。どんなに汚い事を申されましても、どんなに煩わしい事がありましても、黙ってそれを受け入れる、黙って受け入れるだけでなくて、それをどんなに汚い物もです、土の沃(ヨク)土、肥えた土にそれを浄化して行くという働きが土の中にあるのです。天は父、地は母だと、いうなら母体のような働きがあるのです。ですから私共、天地に神(カン)習わして頂かなければならんのです。
天地の道理にあった信心生活をさせて貰うとは、そのまま天の心を心とし、地の心を心として、その天地の心を自分の心の上に頂いて、それを信心生活に表していこうと言う訳、辛抱しなさい辛抱さえしておれば、物事が成就しない事はないと、神信心は辛抱する事が一番大切で御座いますと、三代金光様は仰られる。雨が降るから、風が吹くから、大儀と思うてはならん、と、その辛抱こそ身に徳を受ける修業じゃと、辛抱という事、信心辛抱という事を あらゆる場合に解いておられますね。
その辛抱こそが身に徳を受ける修業なのです。大きな楠がある、その楠から枯れ枝が落ち、枯葉が落ちる、それを受けていくのが大地である、ああせからしか、煩わしかとは云わん。それを全部自分と同じ様な、いや、それを自分の根肥しにして行く、痩せた物でも、汚い物でも、それを根肥やしにする、私共の身の上に起ってくる本当に煩わしい問題が沢山ある、それを私共は難儀という、世の中には難儀な問題はいくらもあるけれど、その難儀な問題を向こうえ押しやる様な事をしては詰らん。
その問題、その難儀な問題こそ、自分の心をいよいよ肥やして行く所の材料にしていかなければならない。それが大地の働きの生命の様な物だと。そこに生神金光大神をお願いしなければおられんのであり、その事を大事にしなければおられんのであり、そこんとこをお互い辛抱し抜かせている内にです、今迄痩せた心、ちょっとした事で腹が立つ、ちょっとした事で心配になる、ちょっとした事で不安で不安で堪らなくなる、と言うような、痩せた心がです、豊かな、大きな心になって行く。
いや、むしろその心が、喜び一杯の心に拡がって行くと言うような、おかげを頂いて行く為に、その辛抱が必要である様に。土とはその様な働き、その様な性質の物であろうと、糖尿病というその事によって、私が食生活の上に、言わば辛抱させて貰おうと、心の中に決めさせて頂いたのも、もう束の間、さあ、お客さんがあって羊羹を出せ、やれ最中を出せと、そして私はおかげを頂いておると 大威張りに威張っておると言う様な事が、神様の気感に適わなかったんだと。
そう云う事を、昨夜改めて解らせて貰った、手を緩めたのである握っておる土を、その手を緩めたらその土の信心がサラサラと大地に帰ってしまう、本当に神様は厳しいお方だなと、私の糖尿病とか、なんとか。そんな事は関係なしに、その糖尿病という事を通じてです、私に辛抱強い食生活というか、言わば私がお道の先生なら先生として恥かしくない様に、私の心の中から卑しい心を取り除いて下さろうとする、そういう働きを無視してです、又いやしい私に返っておったと言う事は、人間の弱さですね。
まあ一口足らんそこが辛抱なんだけど、もうちょっとばかりと云うてから又、お茶碗さえ出してご飯を食べておる様な事をする所にです。私は神様の気感に適わんというか、神様の心に適わなかったんだなと、そしてこうしたお気付を頂いたんだなと、言う風に感じ取らせて頂いた。この神様はですね、もう生かすも殺すも自由自在という気が致しますね、そこんところを私は今からお詫びしながら頂いて、それからの信心生活が出来る様になったら、又手の平を返す様におかげを下さるものだと 確信いたします。
私の糖尿病という事に付いてです、ここ二、三日の体験の中からその様なものを感じ取らせて頂く事が出来ました、そして神様のお働きの素晴らしさと、同時に厳しさをその中から分らせて頂く事が出来た、是からはその事に限っては、もう失敗は致しませんという、土の様な信心が、是から又なされるならばです、また神様は手の平を返す様な、おかげを下さる事を確信します。
云うならば私の失敗の巻なのです、信心とは厳密に云うとその様に厳しいものなのです、私がここ二、三日の様におかげ頂いたというて、卑しい私に戻っておった。それでもまだおかげ頂いとったとするならば、私は愈々病気になっておったでしょう。もう甘い物でも何でもいやそれが適量とでも申しましょうか、そこら辺りなら良いのですが、私が少しにやがる方だものですから、調子に乗ってね。
私自身の弱さもあって、私自身のだらしない所が、ある訳ですからそのだらしない所を、改めさせてやりたいのが親心である、神様の願い思いであったと云う事を思います。信心に辛抱は付きもの、今こそ人生の中の、雨だろうか風だろうかと思う様な時に、そこを辛抱し抜かせて頂くのが信心なのです。神信心は辛抱する事が一番大切で御座いますと、仰るその辛抱が肝要なのである。
そしておかげを頂き、土の様な信心をさせてもらう、一切のものがそこからまた育む、そこから生れて来る所の、新しいおかげというものを頂かねばならぬ。心が痩せておっては良いものが生れて来る筈がない、やせた大地にどの様な素晴らしい種を持って行っても、それは良いものが育たないのと同じ事、豊かな大きな、有難い心を頂かせて貰う為には、どうしても私共が、大地の様な、土のような性質というか、その様な信心辛抱、信心修業が必要であると言う風に思います。
どうぞ